低音やけど

−100℃

『ジャニヲタ』とわたし


嵐のワクワク学校にJUMPちゃん入学が発表された。


心から嬉しいニュースだ。新たなお仕事に挑戦できるチャンスを貰えたこと、今や誰もが認める国民的アイドルである嵐の皆さんと一緒にお仕事をさせてもらえること、そしてその過程を(会場に入れなくとも何らかの形で)見届けられること。それは嵐との共演が確実にJUMPちゃん達が成長する経験になる、お兄さん達との関係がこれまで以上に濃くなるという確信の喜びである。
特にこの1年、数年前までは予想もできなかった大きな仕事が舞い込んでいる。そのたび私は素直に嬉しい。しかし私のこの感情はどうやら多くの『ジャニヲタ』*1 の皆さんのとは少し異なるらしい。今回のワクワク学校についても多くは「倍率やばい!不安しかない!参加出来ない!どうしよう」などとツイートされているのを拝見した。そうか『ジャニヲタ』の皆さんは喜びよりまず不安がくるのか!驚きと発見。もちろん素直な喜びのツイートもあったが少数派であった。昔から私は多数の『ジャニヲタ』の皆さんとはズレている。
 
 
私は2008年8月よりHey! Say! JUMPのファンである。それまではジャニーズが好きでも嫌いでも無かった。つまりは関心が無かった。しかしHey! Say! JUMPに興味を持ち追っていく上で必然的にジャニーズとジャニヲタの世界、文化、風習を知る。驚きの連続だ。そして私は『ジャニヲタ』にはなれないと早期に悟った。これが『ジャニヲタ』!というハッキリとした型があるわけでもなければ、それになる必要もない。ただ私にとって『ジャニヲタ』の皆さんがあまりに強烈に人間らしく生々しく圧倒的で早々に無理だと思った。
 
初めてコンサート*2に行ったその日、目の前で歌い踊るアイドルと同じくらいに『ジャニヲタ』の皆さんに衝撃を受けた。ヲタ友の相方と双子ファッションでコンサートに参戦し、会場では手作りうちわを高々と掲げ仲間と合流し輪を作り語り合う。開演前に鏡を覗き込み精一杯身だしなみを整える。まるで理性など無いかのように自分の欲望に素直すぎる彼女たち。周りの目など関係ないと言わんばかりに感情のまま叫んだり、笑ったり、泣いたり、喜んだりしてその場をその一瞬を目一杯楽しむ人々。善し悪しは別として時折見られるマナー違反の境界線をギリギリまで攻めるその強さ。『ジャニヲタ』の皆さまの圧倒的な熱量の前に私はひれ伏した。ステージの上のアイドルと同等にあまりにキラキラしていて、そしてアイドル以上にギラギラしていて眩しい。ここは本当に日本なのだろうか。みな1度きりの青春を個人主義的行動で謳歌しているように見えた。私も青春真っ只中のはずであるのに、彼女たちと私は完全に別世界の住人だった。同じ目的でその場にいるはずだが疎外感を感じずにはいられなかった。
 
彼女たちの、応援しているアイドルいわゆる「担当」についての深い考察は本当に素晴らしい。Twitterはてなブログで綴られるそれは淡々とした文章であるのにその文字ひとつひとつから溢れんばかりの愛が今にも爆発しそうでとにかく熱い。日々それらを検索しては熟読している。こんな考えがあるのか。こんな捉え方があるのか。私は自分の脳内では到底生成されない感情たちを知ることが大好きで、この世界にいればそれが無限に広がっていて触れられる。そして『ジャニヲタ』と自身との隔たりを再認識する。
 
 
『ジャニヲタ』になることは諦めHey! Say! JUMPを応援してもうすぐ7年。私はこれまで『ジャニヲタ』の友達を作ったことがない。Twitterを始めとするSNSでも情報収集が主な目的で、他の『ジャニヲタ』の方々と交流を持ったことがない。「担当」という言葉を使ったことがない。彼らにはドラマや舞台でキスシーンでも何でも挑戦してほしい。恋愛をしてほしい。青春を謳歌してほしい。結婚してほしい。
 
それでも私は『ジャニヲタ』の皆さんと同じようにJUMPの歌やダンスに心躍らせ、芝居に感動し、アイドルとして輝く彼らをこれからも応援していく。皆さんのようにまとまりのある素晴らしい文章とは全く違うが、こんな風にはてなブログに長文を書いている時点でもうそういうことであると自分で気が付いている。
 
 
始まりは気づかぬうちに
 
 
私はこんな『ジャニヲタ』である。
 
 
 
 

*1:ここでいう『ジャニヲタ』はHey! Say! JUMP周辺のかなり偏った範囲から抽出した対象であり個人的な独断と偏見の恐れが大いにある

*2:Hey! Say! Jump-ing Tour '08-'09